プチ学

身の回りのちょっとした役立ちそうな事をまとめています。

東海道新幹線を作った国鉄総裁は、71歳で就任して79歳まで働いた。

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1955年(昭和30年)5月14日に第四代の日本国有鉄道(※以下国鉄と記載)に就任した「十河 信二」氏は、71歳という高齢でしたが就任してから8年間、国鉄総裁を務めました。

退任するときはもうすぐ80歳の79歳でした。

しかし、「十河 信二」氏は、高齢にもかかわらず、総裁に就任したときには、世界に前例のない「東海道新幹線」と一大プロジェクトを計画し、東京オリンピックが開催する1964年(昭和39年)に「夢の超特急東海道新幹線」の建設を実現させました。

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何故、71歳で国鉄総裁を引き受けたのか?

終戦直後の1945年(昭和20年)に郷里の西条市長に就任したが、翌年1946年(昭和21年)に市長を辞任し、鉄道弘済会会長・日本経済復興協会会長に就任するために上京しました。

鉄道弘済会と日本経済復興協会に勤めた時期は、「下山事件」「松川事件」「三鷹事件」「桜木町事故」「洞爺丸事故」「紫雲丸事故」が立て続けに、国鉄に事件・事故が起きたのです。

初代総裁の「下山定則」氏は、「下山事件」で一命を落とし、2代目の総裁の「加賀山之雄」氏は「桜木町事故」で引責辞任し、3代目の総裁の「長崎惣之助」氏もまた「紫雲丸事故」で引責辞任をしたのです。

この時、国鉄の労使関係は、9万5000人の大規模な人員整理が、終戦の時まで押さえ込まれた労働運動に火を付け、世間を呑み込む勢いの活動となり、険悪この上ないものになっていました。

経営面でも、改善の見込みのない196億円という巨額の赤字を抱え、総裁のなり手がない国鉄の状態だったのです。

また、復興につれて増え始めた旅客・貨物が大動脈である東海道本線に集中し、輸送容量は飽和状態となり、これを解決す抜本的な対策が迫られていたのです。

そんな国鉄の状況を横目で見ながら「十河信二」は誰よりも古巣の国鉄を心配していたのでした。

次第に、この難局を切り抜けることができる力量の持ち主は、「十河信二」以外にないという声が上がり出したのです。

この時の声は、「十河信二」の胸の内を知ってか知らでか、国鉄を案じた大物政治家「三木武吉」に国鉄総裁就任の要請をさせたのです。

この時、十河はすでに71歳で体調もすぐれず、固辞しようとしました。

三木武吉」は、十河と同じ四国の出身で旧知の仲で、向こうっ気の強い性格を良く知っていたました。

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三木は就任を拒む十河に「君は祖国を守らずに逃げるのか。そんなに命を惜しむ卑怯者であったのか」とわざと罵声を浴びせました。

案の定、十河は怒り、立ち上がり、「俺を誰だと思っている。ふざけんなよ!」と言わんばかりに、挑発に乗り、総裁を引き受けたのです。

さすがに、大物政治家は壺を心得ていたようです。

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国鉄総裁就任してからの「十河信二」!

十河は総裁就任の際に「線路を枕に討死する覚悟である」という挨拶を社員にしたそうです。

71歳という高齢を揶揄し「古機関車」と陰口を叩かれますが、新品の機関車の如く大車輪で動き始めます。

十河には「俺は、関東大震の復興は贈収賄疑惑に巻き込まれて逮捕され復興のために何もしていない!特急アジア号を走らせられなかった。後藤新平さん期待をことごとく裏切った百戦百敗の人生なんだ。せめて、1回は勝ちたい。」という強い思いがあったようです。

この強い思いは、すべて「東海道新幹線」の建設に注がれたのです。

しかし、当時は国民の目は、便利な自動車、スピードのある飛行機にばかり向いていました。

「鉄道は時代遅れだ!」という声は少なくなく、国鉄の内部にさえも東海道新幹線計画」に対して否定的な意見があったのです。

そこで、十河は、一計を案じ、世論を東海道新幹線計画」に向けさせるため講演会を開く等の広報活動に打って出たのです。

1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会の時には、東京と大阪の間を3時間で走るという夢の計画は、敗戦の廃墟の中から立ち直り、一流国の仲間入りをしようとする日本国民の夢を大きく膨らませました

この大きく膨らんだ夢が世論となり、計画を後押しするようになったのです。

また、十河は、政治家や官僚に夜討ち朝駆けを敢行し、支持を取り付けたのです。

難問はこれからでした。

新幹線工事には、5年間で総額3000億円という費用が必要でした。

国会で予算を通すために、取り敢えず。1959年(昭和34年)に1972億円で国会承認を受け、残りは政治的駆け引きで捻出することにしたのです。

この十河のやり方を快く思わない政治家・国鉄幹部は辞任に追い込もうしました。

しかし、旧友の元総理大臣「吉田茂」の鶴の一声で、何とか2期目の総裁続投が決まり、東海道新幹線」の計画は進められたのです。

また、新幹線計画に耳を傾けていてくれていた鉄道省の出身の大蔵大臣「佐藤栄作」から「世界銀行に1億ドルの鉄道借款を申し入れては」という助言がありました。

「内閣の政策方針が変わっても、世界銀行から金を借りてしまえば、外国からの圧力がかかり、国は予算の変更できず、新幹線計画は続行できる。」と十河は先を見通しました。

千載一遇の好機とばかりに、1億ドルの鉄道借款を申し入れという身を投げ打っての大博打に打って出たのです。

結果は、2年後に8千万ドルの借款を受けることに成功し、「これで新幹線はできたも同然!」と十河は喜んだと言われています。                     

しかし、1962年(昭和37年)5月19日に常磐線三河島駅構内で死者160人、負傷者296人という列車脱線多重衝突事故三河島事故)が起きました。       

責任処理のため何とか踏み留まりはしましたが、総裁任期が終了する、1963年(昭和38年)5月19日には、東海道新幹線の建設予算超過の責任は免れず、再任されませんでした。

東海道新幹線の開通を見ることなく退任したのです。f:id:Krmkun:20180126192043j:plain 

新幹線の開通

1964年(昭和39年)10月1日の東京駅東海道新幹線ホームで行われた出発式には、最大の功労者である十河の姿はありませんでした。

十河は自宅のテレビで出発式を見たそうです。

国鉄総裁を退任してから3か月後の1964年(昭和39年)8月24日、東京・新大阪間で新幹線の営業ダイヤによる初の試運転が実施されました。

その試乗に招待された十河が、記者たちに囲まれ、感想を聞かれ、「小学生が遠足に出るような気持ちだね」と一言ぽつりと呟いたそうです。

このとき十河の顔に浮かんだ笑みは、寂しげだったといいます。

十河信二」さんが、現在の便利な日本の新幹線網を作ったと言っても過言ではありません。

彼が好んだ言葉に「有法子(ユーファーズ)」というものがあります。

満洲で覚えた言葉で「最後まで諦めない」という意味の中国の言葉でした。

「有法子(ユーファーズ)」に日本人全員感謝です。

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