プチ学

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上野公園の西郷さんの銅像と鹿児島の西郷さんの銅像は、西郷隆盛がモデルではない?

 

東京都台東区の上野公園に立っている「西

 郷隆盛」の銅像は。西郷隆盛が亡くなってから6年経過した、1883年(明治16年)に、顔の上半分は実弟西郷従道、下半分は従弟の大山巌をモデルで、近親者や知己の証言を組み入れて描き上げられた肖像画をモデルにして高村光雲が制作した銅像です。

この事実を証明する逸話があります。

1898年(明治31年)12月18日に行われた除幕式で、西郷隆盛の未亡人「西郷 糸」さんが、「アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ!」と薩摩弁で驚きの声を上げ腰を抜かしたのです。

「アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ!」は、「うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ」という意味です。

また、西郷隆盛の郷里の鹿児島の城山にある銅像については、鹿児島出身の著名な作家の「海音寺潮五郎」氏が絶筆となった著書の「西郷隆盛」で、銅像の作家である「安藤 照」と西郷隆盛の孫「西郷隆治」氏の関係からモデルは「西郷隆治」だと推測していました。

 

何故、「西郷隆盛」本人がモデルにならなかったのか?

理由は、至って簡単です。

西郷隆盛は1878年(明治10年)西南戦争で政府軍と戦い戦死していたからです。

西南戦争が原因で、「西郷どん」こと「西郷隆盛」は、「逆徒」の汚名を着せられたのです。

しかし、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの尽力で、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれ正三位を追贈されたのです。

また、京都市長を務めた長男の「西郷菊次郎」氏が「父は生前写真というものは唯の一度もとったことがありません」と証言しているように銅像作成の資料となる写真さえなかったのです。

世間に写真と勘違いされているものに、お雇い外国人のキヨソネによる半身の肖像画があります。

この肖像画も、「西郷隆盛」の没後の1883年(明治16年)に、顔の上半分は実弟の「西郷従道」下半分は従弟の「大山巌」をモデルとし、さらに近親者や知己の証言を参考にして描き上げられたものです。

上野公園の「西郷隆盛」の銅像は、この肖像画を元にして「高村光雲」が作成したものです。

西郷隆盛の未亡人「西郷 糸」さんが「うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ」と思わず喋ったのは無理からぬことだったのかも知れません。

鹿児島の城山にある銅像のモデルについては、長い期間、前述の「海音寺潮五郎」氏の推測が信じられ、孫の「西郷隆治」氏ということになっていました。

しかし、2008年(平成20年)に南日本新聞がモデルは元山形県議会議員の男性であるという記事を掲載しました。

これに至る経緯は、彫刻家の「安藤照」氏が、1928年(昭和3年)年に日本海海戦連合艦隊司令長官として名高い「東郷平八郎」元帥から鹿児島の「西郷隆盛」の銅像の制作依頼を受けてことに始まります。

「安藤照」氏は、「東郷平八郎」元帥の依頼を受けた時には、「忠犬ハチ公」の作者として著名な彫刻家でした。

しかし、郷里の英雄である「西郷隆盛」の銅像を作ることと、これまた敬愛する郷土の英雄である「東郷平八郎」元帥の依頼に頗る発憤したようです。

体格や外見の表現研究のために国内はもちろん、欧州にまで出かけて勉強研究する入れ込みようだったそうです。

「安藤照」氏が、「西郷隆盛」のイメージを膨らましていた1935年(昭和10年)に、モデルと謂われる「石澤宏太郎」氏が胸像製作を安藤に依頼する親類に付き添い東京・代々木のアトリエを訪ねたのです。

この時に、「安藤照」氏は、「石澤宏太郎」氏の身の丈約5尺8寸(約 175センチメートル)、体重24貫(90キログラム)の偉丈夫を一目見て、惚れ込みモデルを頼み込んだのでした。

このような努力の甲斐があり、1937年(昭和12年)5月23日に銅像は除幕されたのです。

事実を裏付ける写真は、仙台市の「石澤宏太郎」氏の孫「石澤文雄」氏の自宅に「安藤 照」と書かれた名刺と共に保管されていました。

四方向から撮った「石澤宏太郎」氏が軍服を着た写真には、忠犬ハチ公像や「安藤照」氏の姿がありました。

全部で17点ありました。

この事実が長い間明らかにならかった謎は、作者の「安藤照」氏が、終戦間近の1945年(昭和20年)5月にアメリカ軍による東京大空襲の犠牲となって死亡したことにあるようです。

また、「石澤宏太郎」氏の孫「石澤文雄」氏と「徳幸」氏が、「祖父の目は西郷隆治さんに似ていると思う。」とも述べたように「石澤宏太郎」氏と「西郷隆治」氏の目が似ていたことにもあるようです。