柔道の日本選手権で15連覇可能だった選手がいたって本当?
毎年4月29日に日本武道館で行われる全日本柔道選手権大会では、ロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得した「山下泰裕」氏の9連覇が最高です。
9連覇さえ、今後、誰もなし得ない金字塔と謂われているのに、15連覇が可能だった選手がいたなんて信じて頂けますでしょうか。
本当にいたんです!
その人の名は「木村政彦」です。
格闘技好きの方ならご存知の方も多いと思いますが、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」のあの木村政彦です。
男子柔道の無差別級日本一を決める全日本柔道選手権大会は、1948年(昭和23年)から開催され、1956年(昭和31年)が世界選手権開催のため中止しているが、それ以外は毎年開催されている大会です。
戦前は日本柔道選士権大会呼ばれ1930年(昭和5年)の第1回大会から1941年(昭和16年)の第10回大会まで開催されました。
日本柔道選士権大会の優勝者
第1回大会 1930年(昭和5年) 古沢 官兵衛
第2回大会 1931年(昭和6年) 牛島 辰熊
第3回大会 1932年(昭和7年) 牛島 辰熊
第4回大会 1934年(昭和9年) 田中 末吉
第5回大会 1935年(昭和10年) 飯山 栄作
第6回大会 1936年(昭和11年) 優勝者なし
第7回大会 1937年(昭和12年) 木村 政彦
第8回大会 1938年(昭和13年) 木村 政彦
第9回大会 1939年(昭和14年) 木村 政彦
第10回大会 1941年(昭和16年) 広瀬 巌
日本柔道選士権大会の優勝者
第1回大会 1948年(昭和23年) 松本安市
第2回大会 1949年(昭和24年) 木村 政彦・石川隆彦
決勝戦で勝負が付かず2人優勝者
第3回大会 1950年(昭和25年) 石川 隆彦
第4回大会 1951年(昭和26年) 醍醐 俊郎
第5回大会 1952年(昭和27年) 吉松 義彦
第6回大会 1953年(昭和28年) 吉松 義彦
第7回大会 1954年(昭和29年) 醍醐 俊郎
第8回大会 1955年(昭和30年) 吉松 義彦
第9回大会 1956年(昭和31年)世界選手権開催のため中止
第10回大会 1957年(昭和32年) 夏居 昇吉
上記のように全日本選士権の7〜9回大会まで「木村政彦」が3連覇しています。
1940年(昭和15年)は 全日本選士権の代替として開催された昭和天覧試合で 「木村政彦」が優勝しています。
1941年(昭和16年)第10回大会は、兵役のため「木村政彦」は参加出来ませんでした。
木村の前に木村なく、木村の後に木村なし[
小さくて強い柔道家に付けられる尊称のルーツ、小説「姿三四郎」の作家の「富田常雄」さんは 「木村政彦」の強さを褒め称え「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」という最高級の賛辞を送ったのです
この「富田常雄」氏の父親は、講道館の創成期から黎明期にかけて、他流試合の代表選手として、また講道館の師範代として活躍した「西郷四郎」「横山作次郎」「山下義韶」と共に四天王と一人として有名な「富田常次郎」氏です。
ご自身も柔道5段の腕前で、父親の関係で「西郷四郎」「徳三宝」という史上希な強さを誇った数々の柔道家を見てきた方です。
この慧眼をもってこの大賛辞を言わしめた「木村政彦」の強さはどれ程だったのでしょう。
で
15年間無敗で柔道界を去る!
「木村政彦」は、拓殖大学予科2年の19歳の1936年(昭和11年)5月31日に宮内省皇宮警察が主催した柔道五段選抜試合で大日本武徳会武道専門学校「阿部謙四郎」に判定負けを喫しました。
この時から、1950年(昭和25年)にプロ柔道に参加するまで、柔道の試合で負けたことはありませんでした。
「木村政彦」は、1917年(大正6年)9月10日の生まれです。
もし、太平洋戦争がなかったら「木村政彦」の人生はどうなっていたでしょう。
軍隊に徴兵されることもなく、「日本柔道選士権大会」に出場を続け優勝をさらに重ねたことがかなりの確率で予測されます。
プロの格闘家になることもなく、柔道の世界で功成り名遂げられた人生を送ったものでしょう。
戦争で柔道から離れざるをえず、戦後の数年はGHQにより軍国主義的の権化と烙印を押された柔道は禁止されました。
柔道以外の職業を考えたことない「木村政彦」には、この時機はまさしく受難の時機だったようです。
妻が、当時では不治の病といわれた結核を患い、高価な治療費を稼ぐため、プロ柔道から格闘家を経てプロレスの世界に飛び込んだのです。
今では、格闘技最強といわれるグレーシー柔術を完膚なきまで破った格闘家と知られてもいますが、昭和の巌流島決戦といわれる力道山との不可解な試合をしたことでも広く世間に知られたのです。
その後、母校拓殖大学の柔道師範になり定年まで勤め、その後穏やかな余生を送り、75歳で天命を閉じました。
私事で恐縮なのですが、学生時代に毎日のようにこの不世出の柔道家と大学で姿をお見かけしたのです。
私が「押忍」と挨拶すると、少しはにかんだ感じで笑顔を浮かべたように通り過ぎていきました。
この経験は、私だけでなく、この頃、拓殖大学で学んだ者の宝物です。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本が発売されて、貪るように読み、色々なビデオを見ました。
「遠藤幸吉」氏や「ユセフ・トルコ」「エリオ・グレイシー」氏が「木村政彦」への尊敬と親しみの思いを語っている。