NHK「連続テレビ小説」「花子とアン」の「葉山蓮子」のモデルについて
NHK「連続テレビ小説」「花子とアン」の「葉山蓮子」のモデルについて
このドラマの主人公のモデルは、「赤毛のアン」の日本語翻訳者である村岡花子さんです。ドラマの中で、主人公の腹心の友になる「葉山蓮子」のモデルは、柳原白蓮さんです。
「柳原白蓮」とは
「柳原白蓮」、「柳原菀子」は、大正天皇の生母の「柳原愛子」の兄の娘です。つまり大正天皇とは従兄弟の間柄です。
また、大正三美人の一人に数えられるほどの容姿端麗な女性です。
1908年(明治41年)に、兄「柳原義光」伯爵の妻、「柳原花子」の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入し、寄宿舎生活をしました。
この時に、「村岡花子」と親交を深め、「腹心の友」となりました。
卒業後の1911年(明治44年)2月22日に、25歳年上の九州の炭鉱王「伊藤伝右衛門」と日比谷大神宮で結婚式、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行いました。
その当時、地方の一介の炭鉱主と皇室とつながる伯爵家令嬢との婚姻は、前代未聞の出来事でした。
東京日日新聞では「菀子と伝ねむ」というタイトルの記事が連載され「黄金結婚」と揶揄され大いに世間を賑わせました。
ちなみに、ドラマでは「嘉納伝助」という登場人物がモデルとなった「伊藤伝右衛門」です。
炭鉱王の妻・筑紫の女王
二人の華やかな挙式は大いに世間を賑わせました。
炭鉱王の妻として何一つ不自由がない幸せな結婚生活ように見えました。
しかし、25歳の年齢と、育ちの違いが災いし、心の絆は結ばれることはなく、次第に「菀子」は孤独を深めるようになりました。
孤独な「菀子」は、ひたすら短歌に没頭するようになり雅号を「白蓮」と名乗るようになりました。
「菀子」は、1918年(大正7年)の筑豊疑獄事件では贈賄側の証人として出廷しました。
これに目を付けた、大阪朝日新聞は「筑紫の女王菀子」というタイトルで10回に亘る連載記事を掲載しました。
不釣り合いな結婚と豪勢な生活を送りながら不幸な結婚生活に嘆くという私生活の詳細を、「菀子」の短歌を引用し面白おかしく書いたのです。
これを契機に、「白蓮」の雅号と「筑紫の女王」の呼び方が、全国的に知られるようになりました。
菊池寛が、「菀子」をモチーフにした「真珠夫人」を1920年(大正9年)に発表し、ベストセラーになりました。
宮崎龍介との出会いと駆け落ち
ひたすら短歌に没頭する「菀子」は、戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を発表しました。その縁で別府の別荘を訪ね、取材する雑誌「解放」の編集者がいましたこの人物こそが、のちの夫となる「宮崎龍介」です。
1919年(大正8年)12月に、二人は運命的な出会いをしたのです。
夫の「伊藤伝右衛門」とは違い、教養が豊かで、時代の先端を走る社会変革の夢を語る「龍介」に「菀子」は心を惹かれ、やがて二人は恋に落ち、1920年(大正10年)10月20日に手に手を取って駆け落ちをしたのです。
この時に、新聞紙上で「菀子」から「伊藤伝右衛門」への絶縁状が公開されました。
この絶縁状に「伊藤伝右衛門」の反論文が掲載されました。
各新聞社は、今で言うスクープ獲得のためのお取材競争をエスカレートさせ、矢継ぎ早に記事にしたようです。
「白蓮事件」(びゃくれんじけん)と呼ばれ、大いに世間を賑わせました。
映画になった「白蓮事件」
1946年(昭和21年)に「原節子」が主演の東宝映画「麗人」は、「白蓮事件」がモデルです。「霧島昇」が歌った主題歌「麗人の歌」も大ヒットしました。
「菀子」と「龍介」のその後 、
「白蓮事件」の2年後の関東大震災の時に、二人は生活を共にすることができました。かなり激しい紆余曲折の末でした。二人は一男一女に恵まれました。
「宮崎龍介」の父親
「宮崎龍介」の父親「宮崎 滔天」は、アジアで最初の共和制国家である「中華民国」を建国した「辛亥革命」の中心人物である「孫文」を支えたことで知られる革命家です。
「滔天」は、1922年(大正11年)12月6日にこの世を去りましたが、昭和4年(1929年)、南京で行われた孫文の奉安大典に、「妻の槌子」「長男の龍介」「次男の震作」が国賓として招待されました。
1931年(昭和6年)には、「宮崎龍介・菀子」夫妻を国賓として招待しました。
中国大陸の統治が蒋介石の「中華民国」から毛沢東ら「中華人民共和国」に変わった1956年(昭和31年)にも、「宮崎龍介・菀子」夫妻は、孫文誕生90年の祝典に国賓として招待され国家主席の「毛沢東」国務総理の「周恩来」と臨席しました。
その後も宮崎家と中国の交流は続き、現在でも新たな大使が着任した時には、「宮崎家」への訪問があります。
また、孫文の友人「井戸を掘った人」として5年に一度、国賓として中国に招待されています。
日本では、「宮崎 滔天」の名前は、余り知られていないようですが、中国は、前述ように今でも功績を讃えています。
また、「南京中国近代史遺址博物館」の中庭に孫文と並んで銅像が建立されています。
こんな立派な父親が、「白蓮事件」で新聞に掲載された絶縁状を見て「いいのか、お前、こんなことをして」息子の「龍介」をたしなめたというエピソードが残っています。
また、駆け落ち後に「菀子」が実家の柳原家に監禁されていた時は、励ましの手紙を送るなど、家族として暖かく迎え入れた逸話も残っています。
「宮崎 滔天」は、革命に挫折して「桃中軒牛右衛門」と名乗り浪曲師をした時に、「伊藤伝右衛門」からご祝儀を頂いたことがあるそうです。何という因縁でしょう。
「宮崎龍介」と「菀子」を何がそうさせた。
世界的なデモクラシーの発展とロシア革命を背景に、大正時代の日本でも、護憲運動や普通選挙運動をはじめとして、労働運動・社会主義運動などが高揚しました。
吉野作造の「民本主義」美濃部達吉の「天皇機関説」等の、民主主義的な思想が日本にも芽生え始めた「大正デモクラシー」の風潮は、間違いなく二人を後押ししたものと強く感じます。
「菀子」は、晩年、大好きな歌を詠んで穏やかな生活していました。
しかし、緑内障で徐々に両眼の視力を失いました。
そんな「菀子」を「龍介」は、手厚く介護し、娘夫婦と共に最期を看取ったのです。
この事実は、二人が「大正デモクラシー」の風潮に後押しされて、一時の感情の高ぶりだけで「手に手を取って駆け落ち」をしたのではないことを証明しています。
二人の人生は愛を貫いたのです。「では、みなさまごきげんよう!」