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早稲田大学の創立者で、総理大臣にも2度就任した、「大隈重信」の右足は義足だった?

 

早稲田大学創立者で、総理大臣にも2度就任した、「大隈重信」の右足は義足でした。

都の西北」の校歌で親しまれている早稲田大学を創立した人物は、大隈重信という政治家です。この大隈重信という政治家は、今の政治家とは異なり、大変な経験をした人物です。

  

大隈重信」の生い立ちから政治家になるまで

1838年(天保9年)の現在の佐賀県佐賀市佐賀藩士の長男として生まれました。

青春時代は、幕末から明治維新への動乱の時代を過ごし、勤王の志士として、官軍である薩長土肥の一角「肥前佐賀藩」を「江藤新平」「副島種臣」をリードした人物です。

文武に優れ、特に法学者神学者宣教師である「グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック」(※通称がフルベッキなので以下フルベッキと呼称します。)に英語、政治、経済、キリスト教を個人授業で学びました。

1868年(明治元年)の「浦上信徒弾圧事件」でのイギリス公使ハリー・パークス」との交渉で、卓越した知識で手腕を振るい、一気に明治新政府での出世の階段を駆け上がり、参議兼大蔵卿まで上り詰めました。

その後、1872年(明治4年)に、維新後に日本が初めて出品したウィーン万国博覧会の。出展品選定にハインリッヒ・シーボルトを登用し、日本館は連日大盛況という日本政府側の総裁として成功を収めました。

また、地租改正などの改革と、殖産興業政策を推進し成果を挙げました。

1880年(明治8年)に「会計検査院」創設の建議し、翌年の3月の設立の原動力となり、正確な統計の必要性を感じ「統計院」の設立を建議、設立し、自ら初代院長となりました。

しかし、好事魔多し、自由民権運動の流れの中で憲法制定論議が高まると、政府内で「君主大権を残すビスマルク憲法」か「イギリス型の議院内閣制憲法」のいずれかを選ぶかで政争がありました。

この政争の結果、「君主大権を残すビスマルク憲法」を支持する伊藤博文井上馨が、「イギリス型の議院内閣制憲法」を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放したのです。

しかし、これからが「大隈重信」が、今の政治家とは異なる、大変な経験の始まりとなるのです。

  

立憲改進党を結成・早稲田大学を創立

政府から追い出され下野した「大隈重信」は、落胆するどころか、10年後の国会開設に備え、翌3月には「小野梓」「矢野文雄」とともに立憲改進党を結成したのです。

また同年10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に開設したのです。

この時に政府を追い出され「大隈重信」と共に下野した慶應義塾福澤諭吉)門下生らも、落胆するどころか戦前の五大新聞の一つとなる「時事新報」を立ち上げました。

さらに、「丸善」を「早矢仕有的」が創始し横浜正金銀行の運営に携わりました。

中上川彦次郎藤山雷太小林一三実業界へ進出し。財界での慶應義塾大学卒業生の基盤を確固たるものにしたのです。

「失意泰然」を地で行く姿は、考えただけで胸がゾクッとします。

下野してから7年後の1888年(明治21年)2月に、政争の敵であった日本最初の内閣で総理大臣に就任していた「伊藤博文」から「井上馨外務大臣の後任に打診を受け、外務大臣に就任したのです。

ここからが、見出しのように「大隈重信」が義足になるプロローグです。

 

右足を失うプロローグと大隈受難事件

       1888年(明治21年)4月伊藤博文の内閣の後を、黒田清隆が組閣しました。

しかし、黒田清隆の内閣も、       不平等条約の改正が最大の外交上の懸案であることは同じです。       「大隈重信」は、余人を持って代えがたしということで、外務大臣に留任したのです。

不平等条約の改正には、政府は手を替え品を替える手法で、目まぐるしく交渉重ねていたのです。

       大隈重信は、外国人判事を導入することで突破口を開こうとしたのです。

この案には、反対派の強い抵抗がありました。

今の日本では、到底考えることができませんが、この時代は、抵抗の手段には「テロ」という手段が多かったのです。

反対派の急先鋒である「筑前玄洋社」の社員である「来島恒喜」という人物が、1889年(明治22年)10月18日午後4時すぎ、条約改正をめぐる閣議を終えた「大隈」をのせた馬車が霞ヶ関の外務省正門にさしかかったときに、馬車めがけて爆弾を投げつけたのです。

       「大隈」は命に別状はなかったが、右足に重傷を負いました。

膝関節から約6セ ンチほど下の内側に爆裂弾の破片が突き刺さり、もう一つの破片がくるぶしから約3センチ上の内側にとどまり骨が砕け、肉が焼けただれる程の重傷でした。

急遽、後に草津温泉を湯治場としてことで有名な、ドイツ人医師、政府「ベルツ博士」らの意見によって、右脚大腿部下部の3分の1のところから切断されました。

「来島恒喜」はその場で皇居 にむかって正座し、短刀で喉と首を刺して自決しました。

この事件がきっかけで条約改正交渉は中断してしまったのです。
切断された右脚は「大隈」の希望でアルコール漬けにされて自宅に保存されていましたが、保存のために費やされるお金が高額のため、日赤中央病院に寄付されました。

その後、東京都渋谷区広尾にある日本赤十字看護大学にホルマリン漬けで大型のガラス円筒に保存されていました。

ホルマリン漬けの足をみた人は、100年の歳月のために変色が認められるが、生きているかのようであったと述べたそうです。

この足は、1998年(平成10年)に、大隈重信創立した早稲田大学に返還され、樹脂加工がほどこされた後に、故郷佐賀の菩提寺龍泰寺に納められました。
「大隈」は、「我が輩は、爆弾ぐらいで青くなるような腰抜けではない。そんなもの屁とも思っていない。」と毅然に振る舞い「脚が一本なくなっても、その分、ほかのところに栄養がまわる。」と豪語したそうです。

幕末の動乱を経験した、明治の元勲は、さすが凄い人物です。

まさしく、日本男児の真骨頂です。

「在野精神」と「反骨の精神」

              大隈が設立した早稲田大学の建学の精神は、「学の独立」です。

権力や時勢に左右されず、               在野の精神と反骨の精神で生き抜いた大隈」の人生は、「学の独立」という建学の精神を、早稲田の学生だけでなく世の中全体にも根付かせたのです。

「大隈」は、このテロ事件後は、外務大臣を辞職しますが、7年後の1896年(明治29年)の第二次松方内閣で再び外務大臣に就任したのですが、翌年に薩摩閥と対立し辞職しました。

しかし、艱難辛苦があろうとも、持ち前の在野の精神と反骨の精神で挫けることはありません。

世間に公言していたように、1898年(明治31年)6月に板垣退助らと憲政党という政党を結成しました。

同年6月30日に、内閣総理大臣を拝命し、我が国初の政党内閣である、「隈板内閣」を組閣したのですが、政権与党である憲政党に内部抗争が生じ、わすか4ヶ月で総辞職することになったのです。

この総辞職で、野に下り、政界を引退し、早稲田大学の総長、大日本文明協会会長、南極探検隊後援会長と文化事業を精力的に行った「大隈重信」です。

しかし、大衆は第一次護憲運動を起こし、野に下った「大隈重信」を再び政界に復帰させたのです。

何と、現在でも史上最高齢の76歳で、1914年(大正3年)4月16日内閣総理大臣を拝命し、第二次大隈内閣を組閣し、1916年(大正5年)10月9日までの約2年半、政権を担当したのです。

16年というブランクで政権に返り咲いた快挙は、在野の精神と反骨の精神が持ち味の大隈重信」のまさに面目躍如です。

隣国、北朝鮮の脅威が迫ってきた時節です。

日本男児たる者、教養を身に付けつつ、「大隈重信」を見習い、「在野の精神」と「反骨の精神」で生き抜くという気概を忘れず人生を全うしようではありませんか。